こんにちは、ケルトの笛のhataoです。
今回はビジネスから離れて、音楽鑑賞についてのエッセーをお届けします。読者のみなさんは最近、CDを買いましたか? CDではなく、AppleMusicやSpotifyで音楽を聴いている方も多いのではないでしょうか。私が見つめた音楽メディアの発展と、音楽鑑賞の未来について書き綴ってみました。
20世紀の音楽は、メディアの発展とともにあった
私がこれまで生きた約40年間は、音楽メディアの発展の時代でした。
私が子供の頃、父親はレコードでジャズやビートルズを鑑賞し、それはやがて大きなオープンリールに、そして小型のラジカセに変わりました。
私が小学生の頃に家庭にCDが普及し、キラキラ光るCDディスクの小ささ、クリアな音質と曲の頭出しができる便利さに驚いたことを覚えています。高校生の頃にはカセットテープのウォークマンを手に入れて、いつも外で音楽を聴いていました。兄はディスク・チェンジャー付きのCDラジカセ・コンポを両親に買ってもらい自慢げでした。
私がアイルランド音楽を学び始めた大学1年生のころ、MDを手に入れました。
何度録音しなおしても音質が劣化せず、好きな曲の頭出しができるMDがすっかり気に入った私は、CDをダビングして何百枚ものMDコレクションを作り、いつも持ち出しては聴いていました。MDはライブをこっそり録音するのにも便利でした。
当時はちょっとしたケルト・ブームで、国内の輸入レーベルなどが紹介するヨーロッパの伝統音楽のCDを店頭でも買えるようになりました。
CDの中身が良いかどうかは買って聴いてみないとわかりません。なけなしのお金でCDを買うのはある意味賭けでしたが、それでも新しい音楽が与えてくれる新鮮な感動を求めて店に通うのは、私にとってワクワクする時間でした。輸入盤の日本語解説を読む時間も、ダウンロード視聴が主となった今は楽しい思い出です。
当時の私は音楽に飢えていて、CDを友達と貸しあって気に入ったCDは何度も聴いて体に染み込ませていったものでした。
そして音楽は「モノ」から「情報」になった
2000年代にYouTubeが登場してからは、音楽との出会い方が劇的に変わりました。
初期のYouTubeはまだ今のようなミュージック・ビデオとしての楽しみ方は少なかったのですが、CDでは手に入りにくいヨーロッパの伝統音楽を映像付きで見られる点が画期的でした。今では音楽鑑賞だけでなく、どんなジャンルでもレッスン・ビデオや専門家の解説が大量に見られるので、何かを学びたい時や知りたい時には、Googleで調べるよりもYouTubeで調べるほうが多いのではないでしょうか。
2010年代はダウンロード・サービスが身近になりました。私はアメリカのeMusicというダウンロード・サービスを長い間愛用しました。毎月$50を支払いサブスクリプションして1曲約1$で好きな曲をダウンロードするサービスで、トラッド系の音源が充実していたので、毎月の更新日が楽しみで仕方ありませんでした。
データ配信サービスが登場するまではヨーロッパから高いEMS送料を支払ってCDを取り寄せていたのですが、eMusicを利用すれば、送料もかからず即座に聴きたい曲だけを買って楽しめるのです。
私はCDを買っても結局はmp3に変換してポータブル再生機とイヤフォンで聴くので、音質はまったく気になりません。そうして、手に入る限りのトラッドの音源をダウンロードしました。
やがて楽器店を経営するようになってからは、店の仕入れと称して好きなだけCDが買えるようになりました。これは本当に幸せなことでした。昔は聴きたいCDがたくさんあってもお金が足りなかったので、思う存分音楽を集めて聴くことを夢見ていたのです。
私は几帳面なコレクター気質ですから、CDもデータも手に入った音源はすべてHDDに整理して、すぐに聴きたい音源が探し出せるようになっています。もちろん、CDから取り込んだ音楽であればジャケットをすべてスキャンして保管しているので、資料的な価値も高いです。これがレッスンや練習や教本の執筆に非常に役に立っています。
この習慣を20年近く続けているので、私の音楽コレクションは何百ギガもの膨大な量になりました。おそらく自宅で最もお金をかけたのは、楽器ではなくこのコレクションでしょう。火事になって最初に持ち出すものを選ぶとしたら、HDDかもしれないと本気で考えることがあります。
ところが、ここ数年でこの自慢のコレクションにアクセスすることがめっきり少なくなりました。ストリーミング・サービスが登場したからです。
私は数あるストリーミング・サービスの中からAmazon Music Unlimitedに登録していますが、音源の充実ぶりが半端ではありません。新譜が出るスピードが速いし、過去の廃盤も見つかります。最近は自分で膨大な音源のプレイリストを作り、気分に合わせてランダムに聴くことが多くなりました。
21世紀の音楽の価値は「情報」から「体験」に変わる
ストリーミング・サービスは音楽の聴き方を大きく変えました。
これまで私はパソコンを起動して聴きたい音楽のデータをiTunesでスマホに移して聴いていました。一度スマホに入れると飽きるまで数ヶ月間は入れっぱなしでしたから、一枚一枚が印象に残りました。しかし、ストリーミング・サービスを利用してからは手当り次第に次々と別の音源を聴くようになりました。そうすると、ほとんどが印象に残らないばかりか、むしろ曲数が多すぎて聴きたい曲を探すのにも苦労するようになりました。
ストリーミング・サービスの登場によって起きた変化がもう一つあります。私が聴くような古びることのない伝統音楽では、新譜だろうと古い音源だろうと良い音楽は良いので、新譜を聴く意欲がすっかり減ってしまったことです。これはジャズ・ファンやクラシック・ファンでも同じではないでしょうか。
しかし正直に告白すると、音楽を聴くことそのものへの意欲が低くなったのかもしれません。お腹をすかせていた人間が、いきなりバイキング・レストランに放り込まれたような状態なのですから。どれもこれもおいしそうで目移りしてしまい、もうお腹いっぱいなのに食欲だけは尽きず、心から美味しいと感じないままに口に運んでいるというありさまなのです。昔のように限りある手元の音楽を大切に聴いていた頃の鑑賞体験のほうが一曲一曲をしっかり味わっていたなと感傷的な気持ちにもなります。
今や音楽はほとんど水や空気のようにありふれたものになってしまいました。昔は海外から個人輸入をしてまでCDを手に入れて聴くことに情熱を燃やしていたのに、最近はめったにCDを買うことも聴くことがなくなってしまいました。今はCDは衰退することを予見して、楽器店でも仕入れはせずにどんどん売り切ってしまうつもりでいます。
音源として音楽を聴くことのコストが歴史的にかつてないほど安くなった現在、ただ音を聴くだけではない新しい鑑賞体験が求められています。コロナウィルスが終息してもリアルタイムのオンライン・コンサートは当たり前になるでしょうし、さらには5G通信を使った劣化のない音質で、VRゴーグルを使ったリアルなコンサート体験に価値が生まれてくると予感しています。
エジソンの蝋管に音楽が記録された120年前から、音楽は情報になる運命でした。しかし、これから起きる変化は「情報」よりも「体験」に価値を置くようになるのでしょう。そのような便利な未来が楽しみであるとともに、1枚の作品に深い愛着を持って何十回も聴いた時代を生きてよかったと昔を懐かしむ思いがあります。