シリーズ限界集落で暮らす 第一話「秘境に住まう」

こんにちは! ケルトの笛奏者で、ケルト音楽専門の楽器店「ケルトの笛屋さん」を経営しているhataoです。この連載では、スモールビジネスを営む私が起業やビジネスについてアイデアと経験をみなさんとシェアしています。

弊社「合同会社ケルトの笛屋さん」は、先日法人化2期目の決算を無事に乗り切ることができました。コロナ禍、円安、人口減少という輸入楽器商にとってはきつい逆風が吹く中、売上を落とすことなく経営ができているのは、よくやっているほうだと思います。これもスタッフとお客様のおかげです。

さて、すこし気が緩んだところでビジネスから少し離れて、これから数回に分けてシリーズ「限界集落で暮らす」という連載を(勝手に)始めます。今まで何度か書いていますが、私は和歌山県の限界集落に家を持っており、今年春に転入して正式に和歌山県民となりました。第一回目の今回はどのようにしてこの土地に出会ったのか、そして実際の暮らしぶりについてご紹介します。

私が暮らす「限界集落」とは

私の家は、世界遺産「熊野古道」で知られる紀伊半島南部、和歌山県田辺市の山中にあります。紀伊半島はほとんどが山々で占められていますが、ここはさらに内陸にある山深い集落です。有名な神社で観光地でもある「本宮大社」がある最寄りの街「本宮」から車で20分ほど谷筋を分け行った突き当たりにあり、ここより先は道がないのでここを訪れる車や人はありません。誰かが来るならば、それは確実に私に用事がある人です。

戦前までは林業や鉱山で盛え50世帯ほどが暮らしていたというこの集落には、今や定住者が私含めて3名おり(最近、集落の山の上に住む3人目を見つけたのです)、私以外の二人は70代の高齢者。最も近い隣人は私の家から300mほど。おそらく、私が転入しなければ、あと20年もしないうちに廃村になっていたと思われる集落です。現にこの山の向こうの集落はとうの昔に全員が街に出て廃村となっています。

ここには車道と電気はありますが、上下水道はなく谷を流れる沢水を生活用水にして、ガスはないため薪で風呂を沸かしています。ネットは地域のケーブルテレビ局に工事してもらい、なんと光回線の高速インターネットを利用することができます(わざわざ私一人のために!)。

この限界集落に私は2000坪ほどの田畑山林と、4軒の家(最近1軒買い足しました)を所有し、一人で暮らしています。熊野古道が家のすぐ上の山を通っているとはいえ、ここにはハイカーすら訪れないのでとても静かで、そばを流れる川の音や虫の声を聞きながら暮らすことができます。「田舎」というか、控えめに言っても「秘境」です。


私が購入する前の往時の姿

田舎暮らしに憧れ、縁のあった「熊野」に家を買う

私はこの家を、知人から直接買いました。関西の都市圏に住んでいた私は15年くらい前に熊野を初めて訪れ、その雄大な自然とスピリチュアルな空気感が気に入り、いつか田舎で暮らしたい、できれば熊野で暮らしたいと漠然と感じるようになりました。

当時は結婚しておりパートナーがいたのですが、離婚をし次の人生に迷っていた2017年末、この家に住んでいた知人が家を手放したいとFacebookに投稿しているのを目にして飛びついてしまいました。

普通は下見をしたりその地域で家を借りて暮らしたりしてから移住をするものですが、当時は車がなかったので、誰かに買われる前に物件を押さえようと心がはやり下見もせずに購入。今思えばこのような田舎の家にしては高値だったのですが、4回の分割払いで支払いました。

家は2軒あり、ひとつは100年以上の小さな古民家、もう一つは知人が廃材などで自力で建てた山小屋です。この山小屋には電気を引いておらず、ランプの灯りで暮らしていました。購入して以後、私は年に数回、レンタカーで片道4時間かけて通うことになりました。このような特殊な物件はパートナーがいたら確実に反対されていたと思われるので、良いタイミングだったのだと思います。

実は前の住人(知人)が住んでいた頃、この家を買う5年前の2012年に、地元の友人に連れられてここに1度だけ来たことがありました。彼らは夫婦と幼児の3人家族で暮らし、ここで作物や米を育てて釣りをして食べ、花屋を営み古民家で農家民泊をして生計を立てていたそうです。私はその当時にイベントに招かれ訪れたのでした。しかし彼らは子供の教育の問題や、現金収入を十分に得ることができなかったなどの理由で、ここでの暮らしに見切りをつけたのだと聞きました。引越しは自家用車で手運びしたそうです。それでも運びきれず、家に残された大量の生活道具一式の処分を含めて買い取って欲しいということでした。

初めて訪れた時のこと

初めてレンタカーを借りてここに来た時のことは忘れられません。ナビを頼りに細い山道をひたすら分け入り、まだ行くのかと不安になるくらい奥まで進んだ先に、その家がありました。ここの先住者は数年前に家を引き払っていたので、私を迎える者はなく家は残置物で散らかり、暗く汚く狭く、これを自分が片付けるのかと気が重くなりました。

翌朝明るくなって周りを見ると、家の周りの土地は背丈もある雑草と笹で覆われ、どこまでが自分の土地かも分かりません。また、沢水の水道はどこかで切れており水が使えず、電気は来ておらず、携帯電話すらつながらず、何をどうすれば良いのかと途方にくれました。私は、大変な家と土地を下見もせずに買ってしまったと後悔し始めていました。

通いながら、少しずつ家の手入れを

ここに通い始めて最初の2年は車が無かったので、通っては少しずつ家を片付けたり壊れたところを直したりしていきました。別荘というにはあまりにお粗末ですが、それでも時々ここに来る時間は特別で、ここを拠点にして海や山や温泉という熊野の自然に触れる旅行ができるのは大きなメリットでした。

そんな折、2軒あるうちのひとつの古民家で暮らしたいというニートの方を地元の知人に紹介してもらい、家賃を無料にする代わりに管理をしてもらうように頼むなどということもありました。畑や庭を整備してくれたらと期待したのですが、結局は特に発展することもなく、「ここでの暮らしは寂しい」と言って、出ていってしまいましたが…。

ここが発展しだしたのは、コロナ禍が始まった2020年からです。音楽家としてのコンサートやレッスンの仕事がなくなった私は街にいる必要がなくなり、また人口過密の都市では感染するリスクがあるため、避難場所としてこの家ですごす時間を増やすことにしたのです。私はレンタカーをマンスリー契約して、こちらで暮らし始めました。次回は、開拓の様子についてお伝えします!

□ ANOTHER STORY

Taro Uragawa

SHINGO KURONO

SHINGO KURONO

lulun