奥三河は遠くなりにけり…
4月になりました。私は今、名古屋東山の新緑の中を歩いています…と、言いたいところですが、恥ずかしながら1年で名古屋から帰ってまいりました(⁻ⓧ⁻)ゞ
昨年1年でしこしこ行楽情報を貯めこんで、2年目の今年は根尾谷の桜を皮切りに、「食い尽くす🍖浸かり尽くす♨歩き尽くす🏔」の三光作戦を展開し、中京圏の骨の髄までしゃぶり尽くそうとしたワタクシの企みも、イレギュラーな鬼畜人事であえなくついえ去ったのでした。ダミだこりゃぁ~📣
ダミネだここは!
さて、愛知県新城市と設楽町の境界に連なる段嶺の山並み。それを貫く稲目トンネルを抜けたなりきり田口線DAX号は、第1寒狭川橋梁を渡り田峰駅に到着します。駅名は「田峰」ですが、地名は「田峯(だみね)」のようです。旧田口線は、段戸山地からの木材や鉱石を輸送する目的で開業した路線ですが、この田峰駅は、段戸山系の鰻沢や栃洞から木材や鉱石を下ろしてくる田峰森林鉄道の起点となっていました。寒狭川橋梁のたもとに貯木場への引込線とトンネルの跡が残っていました。林鉄遺構を見ていると、ビービー…という鳴き声が寒狭川から聞こえてきました。川面に目を凝らせば、カワガラスがせわしなく石の上を渡ったり、水に潜って川虫を捕らえたり…よくよく見ると、水に入らないで水際をウロウロする体色の薄いヒナの姿が。親離れの季節。微笑ましくもたくましさを感じる野鳥の姿に感動しました。
寒狭川にオシドリ憩う
さて、田峯に着いたら先ず立ち寄りたいのがおしどりの里です。オシドリ(鴛)は、カモの仲間の水鳥で、夏場は北国で繁殖し⇔冬場は本州の山間部で越冬する渡り鳥です。三河地方では、冬場に豊川や矢作川水系でその姿を見ることができます。おしどりの里は、寒狭川が大きく蛇行する田峯の淵に毎年飛来するオシドリを観察できる観光スポットとして、段戸木材のオーナーが製材所跡地に開設したそうです。
オシドリの観察場所は川に面した林の内に設けられた仮設で、鉄砲狭間のような小窓から川面を覗いてみると…いないorz
野鳥相手ですから行けばいつでも見られるものではありません。野鳥観察には時間にとらわれず根気が必要といわれます。(ワタクシは全く向いていませんが(笑))たまにボランティアの方が餌のどんぐりを撒いてくれますが、しばらく待っていると…下流の方からコガモなどの群れに交じってオシドリの群れがやってきました。この日、バズーカ隊がちょっとざわついたのは、混成群の中には割と珍しいトモエガモもいるとか。しばらくの間、オシドリたちは川を上がったり下ったり、時には岸に上がって羽を休めていました。「おしどり夫婦」なんて、夫婦円満の例えになるオシドリですが、当の本人?たちはそうでもなく、オスは気に入らないメスを追い払ったり突っついたりしていました。これが我が家の場合、雌雄逆ですけどね(汗)雌雄つがいの関係もワンシーズンのみなんだそうです。すわっ!突如、オシドリたちが一斉に川の中に飛び込みました。何事かと思っていると、クマタカがオシドリを狙って急降下してきたそうです。少し下流の木の枝に目を凝らすとクマタカの姿がありましたが、狩りを失敗して、少し不貞腐れたような表情に見えました(笑)オシドリにしてもクマタカにしても希少な野鳥を身近に観察できるのも奥三河の魅力のひとつでしょう。
あゝ田峯観音さまぁ~
田峯集落は、段戸山地が寒狭川に稜線を下ろす少し手前、笹頭山の中腹標高約400mほどにある山上集落です。
田峯には、室町時代、田峯城築城の際に城主菅沼氏が城の鎮護として建立した谷高山高勝寺があり、田峯観音こと十一面観世音菩薩は、三河三観音のひとつとして古くから信仰を集めてきました。毎年2月に奉納される田峯歌舞伎は、奥三河らしい祭事ですが、田峯歌舞伎にちなむこんな伝説が残っています。
江戸時代の初め、菅沼氏の菩提寺日光寺が火災で焼失してしまいました。寺を再建するため、村人は段戸の山から木材を伐り出したのですが、あろうことか御用林の木を伐り出してしまったそうです。「木一本に首ひとつ。枝一本に腕ひとつ」などと厳しい統制がされていた御用林です。その噂を聞きつけた代官が検分に来ることになり、さあ大変!
そこで村人たちは、「毎年田楽を奉納しますので、なんとか村をお救いください」と観音様に祈ったところ夏なのに突如として大雪が降り、切り株を皆隠してしまいました。検分は何事もなく終わったそうです。
血で血を洗う戦国の歴史
また、戦国時代の城田峯城が復元されています。戦国時代に奥三河を統治していた国人が山方三方衆と呼ばれた長篠の菅沼氏、田峯の菅沼本家、作手の奥平氏の三氏でした。これらの勢力圏は、現在の新城市北部、設楽町、東栄町、岡崎市東部にあたりますが、今川、武田、織田、徳川ら強国の狭間で同盟、離反を繰り返し、血で血を洗う歴史が伝わります。戦国時代の終わり、元亀から天正に年号が替わる頃、甲斐・信濃の武田信玄、更にその後継者勝頼は、しばしば奥三河に侵攻を繰り返していました。当初、山方三方衆は武田の武威を恐れ徳川を裏切り武田に与していましたが、作手の奥平氏は、武田信玄が死去して徳川家康が長篠城を陥るタイミングで武田から再び徳川に寝返り、徳川方の手に落ちた長篠城を任されます。山方三方衆の菅沼氏と奥平氏の明暗が分かれることになったのが、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いです。武田勝頼は徳川方に寝返った奥平氏の守る長篠城を包囲します。この時、田峯菅沼氏は、武田軍の先導を務めたそうです。
その後、武田軍が長篠城を攻めあぐねているうち、後詰の徳川家康と織田信長が設楽原に布陣。武田軍主力は設楽原に進撃して両軍が激突します。世に名高い長篠の戦い(設楽原の戦い)は、戦国最強とうたわれた武田騎馬軍が織田・徳川連合軍の鉄砲戦術により大敗を喫します。
敗走する武田勝頼を導いた菅沼定忠は、居城の田峯城に迎えようと帰城したところ、武田に追従することを危ぶんだ叔父や家老たちは門を閉ざし、勝頼一行を捕縛しようとしたため、やむなく勝頼一行は信州方面に落ちていきました。そこで終わらなかったのが田峯の血の歴史です。家臣たちに裏切られ武田軍と共に信州に落ちた菅沼定忠。余ほど気が収まらなかったようで、1年後に信州から密かに出撃して田峯城を急襲し、裏切った家臣や女子供らを皆殺しにしたそうです。特に謀反を主導した家老は首を鋸引きにされたとか…結局、その定忠も武田滅亡時に甲斐で殺害されました。まさに諸行無常の響きあり…次の長原前は通過いたします🚃
昔田口線、今道の駅
道の駅したらがあるのが清崎です。大半を山林が占める設楽町にあって耕作地が開け、広い印象を受けましたが、決して広くはないのでしょう。伊那街道の宿場町の面影が残る集落は、林業の最盛期には製材業が行なわれました。
清崎地区内の田口線の軌道跡は国道R257になっています。清崎駅が存在したことを示す看板が国道の傍らに残るばかりです。田口線廃線後、本格的な自動車時代が到来しましたが、ドライバーが立ち寄る道の駅が清崎に出現し、そこに田口線モ14形が展示されようとは、当時の誰が思ったことでしょう。清崎集落の東外れにある第3寒狭川橋梁。田口線時代の橋脚がそのまま町道に転用されています。この橋から寒狭川の上流を眺めると橋脚のような基台の上に祠が祀られています。この清崎の弁天様は、夏場は水遊びでにぎわう場所で、花火大会も行われるそうです。
ラストシーンは突然に…
清崎地区から寒狭川を渡り、田内隧道を抜けると、終点の三河田口までの区間は、寒狭川の渓谷に沿った狭隘な区間になります。現在通じている町道は、軌道跡をそのまま転用したものです。実はこの区間、田口線が廃線となる昭和43年に先立つこと3年前の昭和40年9月に襲来した台風24号により甚大な被害を受け、以降は復旧されることなくバス代行区間となったそうです。狭隘な渓谷を通じる清崎~三河田口間は、田内、第1、第2入道ヶ嶋、第1、第2、第3大久賀多と6つのトンネルが連続しますが、これらのトンネルのうち第1、第2大久賀多のトンネルは、側壁にコンクリート補強がされていない素掘り感満載。どう見ても鉄道隧道とは思えない、鉱山のような味わい深さとドキドキ感を楽しみました。第1、第2入道ヶ嶋トンネルの間にある第4寒狭川橋梁は、その姿から入道ヶ嶋の高鉄橋と呼ばれていたそうです。しかし、橋の上からではイマイチピンときません。せっかくなんで川面から見上げてみようと斜面を下ってみるとこんな感じ。もうちょっと遠くから見てみたかったのですが、渓谷の地形が厳しくて先に進めませんでした。ラストシーンは突然に…ラブストーリーでした(笑)
終点の三河田口まであと一息という土平という場所まで来たとき、進入禁止のゲートが立ちはだかりました。知ってはいましたけど、信じたくなかったという場所。2034年に完成予定の設楽ダム。その工事が本格化したことによる封鎖線です。
ここから先の寒狭川沿いの渓谷や三河田口駅の跡地周辺もダムによる水没予定です。個人的な価値観はどうあれ、新たに造られるダムも、それによって湖底に沈む道路や廃線も、時代のニーズによって人が取捨選択している人工物なので仕方ないと思いますが、寒狭川はヤマセミやオシドリが暮らす清流。それら生体は生き残ることができるのでしょうか…改めてR257を迂回して、三河田口駅の跡地にやってきました。「かつてここまで田口線という鉄道が通じていた。ここには三河田口駅という終着駅があった。」という古い説明版はかろうじて残っていましたが、その存在を圧倒するダム工事の進入路と付け替え道路の橋脚?が気になるばかりでした。田口線廃線を辿る旅は、あと20年、いや10年早ければ…という虚しさが残りました。でも楽しかったよ🎶
今回もご笑覧いただきまして、ありがとうございました。