上高地クラシックルート【前編】

長野県を代表する観光地、上高地。北アルプスの山懐に広がる梓川の堆積平野には、梓川の清流とその流域に落葉広葉樹と針葉樹か混在する深い森が広がっています。梓川に架かる河童橋から見上げる穂高連峰の岩稜や今も噴煙を上げる活火山焼岳など、どこか日本らしからぬ風景は、今や日本を代表するとして景勝地として、国内外からから多くの観光客が訪れる観光地となっています。

上高地へのアクセス

上高地へのアクセスは、唯一の車道である上高地公園線が、環境保護の観点から通年マイカー規制が行われているため、マイカーや公共交通機関で行く場合は、長野県松本市の新島々や沢渡、あるいは岐阜県高山市平湯からバスやタクシーに乗り換える必要があります。

そうはいっても、上高地公園線をバスやタクシーが絶え間なく通行する様やバスターミナルや河童橋周辺の賑わい、散策道をワイワイ賑やかに歩くグループを目の当たりにすると、オーバーツーリズムの感は否めませんが。かく申す、この山笑と上高地の出会いは、子供の頃の家族旅行でした。山屋だった父親の企画する家族旅行といえば、何かにつけて山界隈、特に信州方面でしたから、当時のワタクシといえば、「え~?また上高地行くの」みたいな、今考えるととっても贅沢な反応をしていました。

それでも、夜行で父の運転する車に揺られて、目覚めたときの風景といえば、朝もや立ち込める大正池ともやの中から荒々しい姿を見せる焼岳の絶景。それを眺めながら、沸かしたお湯でいれたコーヒーとカップラーメンの朝食は、今でも忘れられない思い出となっています。今思えば、マイカーで乗り入れていたので、夏休みではなかったのか?夜間は通行可能だったのか…

上高地クラシックルートとは?

さて、交通機関で行くのが当たり前の観光地となっている上高地ですが、上高地公園線の導入に位置する釜トンネルが竣工したのは、大正時代のこと。そもそもは、大正4年に焼岳が大噴火して、梓川に誕生した堰止湖(大正池)に発電施設を建設するため、車道が整備されました。その後、登山客などを運ぶバスが上高地に入ったのは昭和初期になってからのことでした。この釜トンネルが開通する以前の上高地は、人跡未踏の秘境だったのでしょうか?

さにあらず、江戸時代から木材の産地となっていて、今では信じられませんが、明治時代には入植した人たちが牛の放牧を行っていたそうです。また、同時期には、レジャーとしての登山を我が国に紹介し、日本アルプスなど日本の山々を海外に紹介した英国人宣教師ウォルター・ウェストンも上高地を経由して、穂高連峰や槍ヶ岳など名だたる名峰に登りました。そんな人たちが歩いた道が、今回ご紹介する上高地クラシックルートです。【国土地理院 電子地形図25000を加工】

クラシックルートの起点は、松本平の西端に位置する松本電鉄の終点新島々駅から国道R158を3kmほど西進したところにある島々という集落です。ここには、平成の大合併で松本市に吸収合併した安曇村の政庁(現在は松本市安曇支所)がありましたが、それ以前から梓川上流の稲核や奈川方面に通じる鎌倉街道や飛騨道の宿場として栄えていたようです。
【宿場町の風情を残す島々】左手の土蔵はアルパインカフェ満寿屋 オーナーは、クラシックルートの復旧にご尽力されました。

この島々宿から梓川の支流である島々谷川に沿って6kmほど北上すると、島々谷が北沢と南沢に分岐する二俣に至ります。この区間は、島々谷林道という未舗装の林道が通じていますが、戦前に活躍していた森林鉄道の名残で、戦後は島々谷川の砂防提建設のために整備された林道です。林道は二俣から更に北上して島々谷北沢方面に通じていますが、クラシックルートは西に屈折し、島々谷南沢沿いに延びる山道を遡行していきます。その南沢を8kmほど歩くと南沢の源頭部に至り、ここから北へ屈折し、常念山脈の南端に位置する斜面を2kmほど急登するとクラシックルートの最高地点、標高2135mの徳本峠(とくごうとうげ)に至ります。【徳本峠に建つ徳本峠小屋】開業は大正12年。今年101年目を迎えます。

徳本峠を乗っ越すと上高地の地域に入り、峠から4kmほど下っていくと梓川上流部の明神に至ります。

ここまで、島々から徳本峠を経て明神に至る約20kmの島々谷古道が、近年「上高地クラシックルート」と呼ばれるようになりました。20kmといえば、オラが町二宮から東海道線に乗って西に向かえば根府川、東に向かえば藤沢くらいの距離。平坦な道を歩いてもなかなかしんどい距離です。え?二宮が基準では分かりづらい?仕方ない。東京駅からなら川崎の先ぐらいまでで、ダメ押しで丹沢主稜縦走ならば大倉から西丹沢までの距離です(笑)【明神館】梓川の対岸に明神岳の岩峰を望みます。

気になっていた昔話

島々谷古道は、実は上高地クラシックルート以前にも、先述の鎌倉街道、飛騨道の裏街道として人の往来があったと伝えられています。それを証明するひとつが、これから今回ご紹介する戦国時代の悲しいお話です。島々から梓川に沿って西に向かい安房峠を越えると飛騨国です。戦国時代、飛騨国は小豪族が互いに争いを繰り返す争乱が続いていましたが、国司姉小路氏を称する三木氏が武田や織田など周囲の大国に服属する形で国内に勢力を伸ばし、ほぼ飛騨を統治する勢力に成長しました。

ところが、織田信長が本能寺で倒れ、その後、信長の後継者として豊臣秀吉が畿内に勢力を拡大すると、三木(姉小路)頼綱・秀綱父子は、豊臣に敵対する勢力であった隣国越中の大名佐々成政と同盟関係であったため、天正13年(1585年)、秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近の侵攻を受けます。

父頼綱は、抵抗の末、金森軍に降伏したものの、松倉城(高山市)に籠った子秀綱は、降伏を是とせず、城を落ちて妻の実家である信州波田の淡路城に逃れることになりました。当時の信州は、豊臣秀吉と対立していた徳川家康の勢力下であったため、家康の庇護を受けようとしたと考えられています。

信濃を目指す三木秀綱一行は、高原川を遡行した今の奥飛騨温泉郷付近で、多勢では目立つため、島々での再会を誓い夫婦別ルートをとることになりました。秀綱は鎌倉街道を辿り安房峠を越え、大野川~奈川~稲核を経て島々に至るルート、夫人は焼岳の北を乗り越す中尾峠を越えて上高地に入り、徳本峠から島々谷を経て島々に至るルートをとりました。

残念ながら、秀綱は食事を求めた土民に裏切られ、奈川角ヶ平で非業の最後を遂げることになります。

一方の夫人も徳本峠から島々谷を下って、二俣まで来たときに、土地の杣人(きこり)に見つかり、金品を奪われただけでなく、無慈悲に殺害されてしまいました。夫人の遭難については異聞があり、杣人に襲われた夫人は、打掛や懐刀を奪われ木に縛り付けられてしまいます。しばらくして、杣人が夫人の様子を見に行ってみると、夫人は少しも変わらぬ美しい姿で木に縛られています。不思議に思った杣人が近づいてみると、突然、夫人はニヤリと笑みを浮かべ「この恨み晴らさずおくものか」と言うや、顔や肉体が崩れて白骨とかしたそうです。逃げ帰った杣人は悪病を患って間もなく亡くなり、その一族も絶えてしまったそうです。

昔話が長くなってしまいましたが、三木秀綱夫人が辿った高原~中尾峠~上高地~徳本峠~島々谷~島々のルートが古くから間道として人々に歩かれていたことを証明しています。

ワタクシがこの伝説を知ったのは学生時代のこと。以降30年もの間、島々谷を歩くことを夢見てきました。もっとも、学生時代は楽しいこといっぱいですから、忘れていた時間も長いですが(笑)後編では、去る9月上旬にクラシックルートを実際に歩いた時の風景をご紹介します。

今回もご笑覧いただきまして、ありがとうございました。

□ ANOTHER STORY

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