後ろ向きな理由で起業。起業前夜のこと

スコットランドから書いています。

こんにちは。ケルトの笛のhataoです。

「音楽家が大好きなことで起業した話」今回は2回目の投稿となります。名前を覚えていただけましたら嬉しいです。

実はいま、スコットランドから原稿を書いています。ハイランドの雄大で美しい自然の中をドライブし、これからノルウェーの北極圏、フランスのケルトの地域であるブルターニュを、3週間で回る旅のさなかです。

私はもともとバックパッカー気質なので、好きなときに好きなだけ旅行をすることができて、起業という決断をして本当に良かったと思っています。

旅行中は宿泊先のWifiを使って毎日、2時間ほど日本のスタッフや顧客や取引先との連絡をします。輸入業を営んでいるのですが、国際送金もネットで行えて、本当に便利です。唯一不便なことは、日本との時差くらい。いい時代になりました。

バックパッカーや旅行が好きな方は、起業のアイデアを考えるときに、海外生活をしながらできる仕事を考えてみてはいかがでしょうか。

大学時代から自分で稼いでいた

さて今回は私がどうやって起業するに至ったかについてお話をします。今からさかのぼること20年近く前なのですが……。

私は大学時代に、趣味で楽器の演奏を始めました。あまりにのめり込んで授業にほとんど出席せずに毎日ひたすら練習ばかり。最初の2年くらいで急速に腕が上がり、社会人のバンドに参加したりアイリッシュ・パブでセッション・ホストをして、人前で楽器を演奏して定期的にお金をいただくようになっていました。学生時代から多少は稼いでいたので、卒業後はたくさんライブしたら音楽で生活できるかも? というわずかな手応えを感じていました。

当時はプロになると意気込んでいたわけでもなく、就職活動、なにそれ? というほど無頓着に、ひたすら音楽に打ち込んでいました。

卒業後はアルバイトで生計を立てつつ、バンド活動に励みました。当時は就職氷河期と言われ、がんばっても良い仕事を得るのは難しい時代。思えば世間知らずでした……。

大学卒業後、フリーターに

卒業後、親には「3年間は音楽活動で頑張る。もしそれでダメなら就職する」と誓って、フリーターに。

最初は居酒屋やスーパーの魚屋さんでアルバイト。そのあとで、少しでも自分の興味(アイルランド音楽)に近いことをと思い、アイルランドの雑貨を輸入販売する零細企業で販売や事務のアルバイトをしていました。ここでは実力が認められれば、いずれ正社員になれると信じていたのですが、結局、正社員になることはできませんでした。

しかし、ここで輸入業に少し関われたことが、今の仕事(楽器の輸入販売)につながっています。本当に何が役に立つかわからないものです。

当時は、まだ若いんだし、一応「関関同立」と言われる関西の有名大卒だし、音楽でダメなら就職したらいいや、と考えていました。一方で、就職して社会人として成長してゆく友人たちを見ると、恥ずかしさと悔しさ、焦りを感じてもいました。

2年間のフリーター生活。当時はまだCDもよく売れていて、メジャーデビューに意味があった時代でしたが、2年バンド活動をやってもそのようなチャンスはありませんでした。

やがて当時の交際相手と結婚する風向きになり、フリーターでは相手の親が心配するだろうから、と就職をすることにしました(その10年後、離婚してしまいましたが)。仕事を終えてから夜に音楽活動をすれば、両立ができると思っていたのです。

就職活動、そして挫折

新卒で就職しなければ、数年間は「第二新卒」扱いになり、就職市場での需要が極端に狭くなります。また、私はその2年間に、客観的に見ればフリーターをして遊んでいたわけですから、キャリアアップのための勉強もしていませんでした。

25歳を超えると就職先が極端に少なくなるという噂をネットで読んで、ハローワークの就職セミナーを受けて履歴書の書き方や面接の練習をし、いくつかの会社の面接を受けました。

しかし、あるのは非正規・低賃金・肉体労働の仕事ばかり。大学卒業のメリットを活かせるような仕事は見つけることができませんでした。

そんな中で少しでも前の輸入業でアルバイトをした経験を活かせればと思い、東南アジアでOEM(注文生産)した雑貨を売る零細商社に営業職で就職しました。

額面25万円の月給を提示されたときは、アルバイト時代では考えられない収入に希望を膨らませていました。

しかし現実は甘くはありませんでした。当時はとっくにAmazonもありイー・コマースの時代なのに、電話でアポを取って、飛び込みで商品サンプルをスーツケースに入れて売り歩くスタイル。売れないと叱責され、役に立たず扱いをされて夜遅くまで雑用を命じられます。

実は就職してからもこっそり音楽活動を続けており、アイリッシュ・パブのセッション・ホストで5,000円をもらって毎週1,2回演奏していたのですが、残業の毎日で、欠席することもしばしばで、音楽家としての信用も落ちていました。

練習時間も極端に減り、夢に見ていた「安定した仕事をしながら音楽活動」は、絵に描いた餅となったのでした。

その時の自分にとって仕事は自分の命運を会社に引き渡し、ストレスや不自由さの代償としてお金をもらう行為。自分がとても惨めに感じられました。結局、営業職はうまく行かず、半年を待たずクビになりました。

退路を絶たれて起業へ

就職する前は「音楽でダメでも就職したらいいや」と考えていたのが、実際に就職してみると思っていた生活とはかけ離れていました。別の会社に就職したとしても、同じような自由さや不安定さは変わらないだろうと考え、会社に適応できなかった自分を受け入れることにしました。

当時は祖父母の家に間借りしていたので、家賃がかからず、また当時の妻も会社員だったので、なんとか生活できるだろうと、音楽家でやってゆくことを決意。

音大卒でもなく、音楽家としての稼ぎ方もほとんど知らず、手探りでの再スタートとなりました。25歳のことでした。

起業には、前向きな起業と後ろ向きな起業があります。自分の場合は会社員がまるで合っていなかった自分に絶望しての後ろ向きな起業でした。しかし、こうして退路が絶たれるまでは、本気にはなれないものです。ここから、自分の挑戦が始まりました。

次回は、独立後、どのように仕事を広げていったかについてお話します。

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