住宅街の納豆工場

こんにちは。
発酵文化研究所です。

以前から気になっていた、
住宅街にある納豆工場にお伺いしました。

どうして、こんな場所に?
なぜ、大阪なのに山形??
などなど私の疑問をぶつけてみました。

①はじまりは郷土を想う人のため

東大阪の東部、生駒山地に臨む瓢箪山付近の住宅街を歩くと、
なだらかな坂の途中に納豆工場が現れます。

周囲は、とても静かな住宅街。
そして公園からは楽しそうな子供たちの声が響きます。

そんな、誰が見ても閑静な住宅街の中、
山頂から吹く風と共に、納豆の香りを感じた瞬間、
やましげ納豆」という文字が目に入ります。

ハイキングコースへとつながる道。
同じように驚かれた方も少なくないかと思います。

そしてようやく、気になっていた、
住宅街に立つ納豆工場に伺える日がやってきました!

まず、どうしても聞きたい2つの疑問の1つ、
なぜ、このような住宅街に「納豆工場」が存在するのか?
ということです。

その疑問に、お応えくださった山本代表。
私の2つの疑問の答えになるお話をしてくださいました。

昔、大阪には山形から多くの方が奉公に来られていたそうです。
一度、奉公に出たらいつ帰れるのかもわからない時代。

そうした方々が故郷を懐かしみ、
山形での味として、納豆を思い浮かべるのですが、
当時の大阪には糸引き納豆の文化は無く、
手に入れることは、とても困難なことでした。

そうしている内、無いなら作ればと始まった納豆作り。
当時は、商売というよりも、
山形を懐かしむ方への想いからだったようです。

そして、奉公にきていた山本代表のお父様は修行を積まれ独立。
その時、選ばれたのがこの場所だったそうです。

当時は、家一つない場所だったとのことで、
ここなら納豆工場に問題ないと選ばれたそうですが、
どんどん住宅地として開拓され、
今のような不思議な状態になってしまったようです。

このお話により、
私が気になっていた2つの疑問を解消することができました。

②納豆工場に生まれて

そして、お話しを伺う中で新たな疑問が生まれます。

当時、関西で糸ひき納豆はあまり好まれておらず、
私の幼少期でも、
身近な大人たちが「納豆は食べ物じゃない」などと話していたほどです。

そんな納豆と共に、
生まれた時から一緒に暮らしてきた山本代表にご苦労はなかったのかなと。
ふと思い失礼を承知の上で、お伺いしてみました。

そうすると、
山本代表は笑顔で、子供の頃の出来事を聞かせてくださいました。

友人「家、どんな商売してんのん?」
代表「なっとうや」
友人「ナットか!」
代表「違う。なっとう」
友人「甘納豆か!」

私は、思わず大笑いしてしまいました。
そうなんです。
東大阪では、いろいろな機械や車の部品や釘、ナットなどを製造する工場が多く、
「納豆」よりも「ナット」の方が身近だったのです。
そして「納豆」といえば、
贅沢で特別なおやつでもあった、
「甘納豆」の方が身近な存在だったのです。

こうして、お話しを伺っているうちに、
糸ひき納豆が、大阪を始め関西圏で浸透していくまでの歴史を、
実際に見て、経験してこられたのだなぁとしみじみ感じました。

③作り手に会うことの大切さ

今回、お話しを聞かせていただく中で、
製造工程が、シンプル過ぎるがゆえの難しさや、
冷蔵技術の発達により、
ベストな発酵状態を維持できるようになったことなどを知りました。

私などは、どうしてもアレンジしたレシピを紹介しようとしてしまいますが、
山本代表の
いろいろするよりも、シンプルにご飯に乗せて食べるのがベスト
という言葉に、作り手だからこその納豆への愛情を感じました。

工場内で納豆の香りに包まれたこともあり、
帰路、納豆が食べたいということで頭がいっぱいになった私。
炊き立てご飯に納豆。
ご馳走だなぁと思いながらいただきました(*^-^*)

お忙しい中、ご協力くださった皆様。
本当に、ありがとうございました。
心より感謝申し上げます。

□ ANOTHER STORY

Saki Nakui

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Saki Nakui