「積ん読」って悪いこと?

積ん読の積極的な役割:読むこと以上の価値とは?

「積ん読(つんどく)」という言葉には、ある種のネガティブな響きがつきまとう。買った本を積んだまま読まずに放置する行為を表すこの言葉は、まるで読書の「失敗」を暗示するかのようだ。しかし、積ん読は本当に「読まないこと」の象徴であり、失敗の象徴なのでしょうか? 実は、積ん読にはその先にある大きな役割や価値が隠されています。それを理解することで、私たちは積ん読の捉え方を大きく変えることができるのです。

積ん読は「興味の貯蔵庫」

積ん読の最大の役割のひとつは「興味の貯蔵庫」として機能することです。積ん読になっている本を、私たちは本当に全く読まずに放置しているでしょうか。書店でその本に興味を持ったとき、買おうと決意したとき、帰りの電車の中で、家に持ち帰った直後、私たちはその本の表紙を眺め、帯のあおり文句を読み、目次や前書きを読まなかったでしょうか。そしてその本や著者について考え、内容を想像したはずです。

実は議論や論文では、多くの場合どんな結論が書かれているかよりも、何について書いているかの方が重要です。たとえば、「どの政党に投票すべきか」について書かれた本を読んだからといって、その本の結論どおりに投票する人は少ないでしょう。しかし、その本を読みながら読者は投票行動について考えはじめています。本は思考の助けになりますが、より重要なのはそれについて考えはじめることです。本を手に取った時点で読書の目的はなかば達成しているのです。

しかもその本を手元に置くことで、いつでも本の中にある知識や情報にアクセスできる状態を作っています。背表紙を眺めることで、自分の興味や思考を固定し思い出すことができます。私たちは興味を持ったことを常に深く考えるとは限りませんが、いつか深く掘り下げたいと思ったとき、その素材が既に手元に揃っている状態を作ることにも繋がります。

特に現代の情報社会では、デジタルの情報は瞬時に消費され、忘れ去られがちです。しかし、物理的に存在する本は、棚に並び、部屋の一角を占めることで常に私たちの視野に入り続けます。この「視覚的存在感」が、私たちに新しい興味を喚起し、自分の中にある興味や好奇心への再アクセスの機会を提供します。

積ん読は「読書欲」の象徴

本は単に「読む」ためだけに存在するものではありません。それは、知的欲求の象徴でもあります。「知りたい」という欲求は人間にとって根源的です。本を買い、積んでおく行為そのものが、自分の中の知識に対する欲望や、世界をもっと理解したいという願望を示しています。どんな本を選んで積んでいるかを見れば、その人の興味や関心の方向性が一目瞭然です。

ヨーロッパでは家の中に本棚がある部屋を設けて、訪れたひとがその本棚から主人や家族の人物像を理解できるようにしている家庭が珍しくないようです。日本でも昭和中期には「応接間」に百科事典や美術文学の全集などを置いて、知識人であることを示していました。誰もが知っていなければならない教養がそこに集合していたのみならず、部屋の雰囲気を作るインテリアとしても機能していたのです。

現代日本ではそのような習慣は失われた理由はさまざまですが、文学全集や百科事典に代表される一般教養が普遍性を失って多様化し、本棚も家庭のものから個人のものになったのが大きいでしょう。積ん読も応接間の本棚が個人化したものなのかもしれません。

そのため誰かが積ん読している本を見ると、その人がどのようなことに関心を持ち、どんな知識を欲しているかを垣間見ることができます。もちろん、すでに読んでしまった本からもその人の知的傾向を知ることができますが、それは知識であり過去のことです。まだ読んでいない本からは、その人がこれからどんな人物になろうとしているのかをうかがうことができるのです。

積ん読は人生のタイミングを「待つ」

読書には、タイミングというものが存在します。ある時点では読みかけてすぐに挫折した本でも、あるいは理解が難しいと感じた本も、時間が経つと驚くほどスムーズに読み進められることがあります。これはただ単にその時が来たというのではなく、もしかしたら積ん読によってその本から刺激を受け、意識するとしないとに関わらずその本のテーマについて考え続けていたからかもしれません。

実際、人生のある段階でピンと来なかった本が、数年後に大きな影響を与えることも珍しくありません。私自身、多くの積ん読本の中から、何年も放置されていた一冊を偶然手に取り、驚くほど今の自分にフィットする内容だったという経験があります。積ん読は、こうした「後に来る意味深い読書体験」の準備をする行為なのです。

積まれた本たちは、私たちの興味や人生の進展に応じて読まれるのを待っています。そして、時間が経つことで得られる新たな視点や経験が、本を読む際に深い意味を与えることができるのです。このように、積ん読は「いつか読む」という時間軸に沿った読書体験の準備であり、それ自体が非常に積極的な役割を果たしています。

読んでも読めていない

積ん読はこれから読むつもりで読まずに置いてある本ですが、読んだはずの本もたいしてちゃんと読めていないことが多々あります。私たちは、ずっと昔に読んだ本を読み返すことがありますが、そうした場合に記憶していた内容と全く違ったということはないでしょうか。あるいは前回は気づかなかった視点から新鮮な読書体験をすることは。私は読んだことを忘れていて、最後のページに近づいてから以前も読んだことを思い出すことがあります。読んだはずの本も、誤読したり、浅くしか読めていなかったり、忘れていたりで、目次と背表紙しか読んでいない積ん読本とあまり変わらないかもしれません。

パラパラと眺めただけの本は積んどく本、すべての字面を追った本が既読本、という区別はあまり意味がないかもしれません。ざっと眼を通しただけではダメで、ちゃんと通読しなければ読んだことにならないという観念が私たちを読書から遠ざけているのかもしれません。

積ん読本は、私たちを読書に駆り立てます。「興味はあるけれどまだ読めていない本」が積ん読本だからです。それが私たちの知性に、まだ知らないことがたくさんあるという謙虚さを与えます。もし既読本だけを本棚に並べたら、私たちは満足してしまうのではないでしょうか。本当は既読本も完全には読めていないのに。

積ん読はただの「読みかけの山」ではありません。知識と好奇心の象徴です。部屋の一角に積まれた本たちは、そこにいるだけで知的な雰囲気を醸し出し、自分の精神的な豊かさと欠落を実感させてくれます。積ん読は、まだ知らないことがたくさんあるという知識や文化への敬意を形にしたものです。その姿は意外に美しくありませんか。

自分の積ん読を見てください。物体としての本には魅力があります。それは形だけに規格があり、おおきさや色がまちまちなことから生ずるのですが、その話はまた今度にしましょう。

 

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