ゆきゆきて奥三河その2【寒狭川・前編】

愛知県東部の大河豊川。豊川の流れを遡っていくと、古戦場として名高い新城市の長篠付近で宇連川と寒狭川に分かれます。宇連川の流域については前回【鳳来峡編】で話題にさせていただいたところですので、今回はもう一つの寒狭川の流域について、今年2~3月にかけて何度か訪れた際の話題をガッチャンコして、ご紹介させていただきます。

さて、寒狭川ですが、一般的には「かんさがわ」と呼ばれています。一部では「さむさがわ」とか「さぶさがわ」と呼ぶ場合がありますが、段戸山地の一山、寒狭山を「さぶさやま」と呼ぶので、後者の呼ばれ方もありのようです。現地の人と話すと自然に出てくるのは「かんさがわ」でしたが、ワタクシ的には「さぶさがわ」好きなんですけどね。ちなみに豊川を地名として読むと「とよかわ」ですが、河川の名称は「とよがわ」です。

その寒狭川は、設楽町北西部に位置する木曽山脈の南に下った段戸山地を源流とする清流です。地図によっては源流から豊川と表示されている場合もあるので、豊川本流ともいえるのですが、設楽町から新城市に入る付近で当貝津川と出合うまでの上流部を寒狭川と呼ぶことが多いようです。

週末は名古屋から奥三河へ

名古屋から奥三河へ車でアクセスする際、新東名新城ICを経由して北上するのが手っ取り早いのですが、ワタクシはあえて名古屋からまっすぐ東に進み、猿投グリーンロード、飯田街道を経て豊田市の足助へ抜け、足助から「鳳来寺みち」こと国道R420で三河高原を越えて行くルートが好みです。この時期の三河高原は、木曾山脈から吹き降ろす寒気と南岸低気圧の通過がバッティングすると、降雪することもあり、峠越えをあきらめたこともありました。R420が新段戸トンネルを抜けると設楽町。奥三河に入ります。道は当貝津川沿いに下り加減になって、新城方面から北上してくる国道R257に出合うと、目の前に青々とした水面が広がります。先述の寒狭川と当貝津川が出合い豊川と名を変える場所はこの場所なのです。

更に寒狭川沿いにR257を東進すると段戸山地の末端が寒狭川に下る田峯(だみね)、そして道の駅したらのある清崎に至ります。この道の駅したらは、施設も新しく、夜間は通行量も少なく空いています。更に24時間営業のコンビニが隣接するので、奥三河探訪の拠点になりました。金曜日の夜には名古屋を出て、道の駅で車中泊すれば、休日は朝から活動できるわけです。

この道の駅したらをベースにズベノー作戦(※ズベノー作戦については、1月投稿「小型バイクで、ワタクシ的″ズベノー作戦″始動!」をご参照ください。)を開始したいと思います…が、今回はちょっと視点を変えて沿線途中下車の旅的にご紹介いたします。

昔話の鉄道田口線とは

道の駅したらには、古風な鉄道車両が展示されています。モ14形という田口線で使用されていた車両です。えっ、田口線?聞いたこともありませんね。寒狭川の流れに平行して、かつてローカル鉄道が走っていたのをご存じでしょうか。飯田線本長篠駅(鳳来寺口駅)から設楽町の中心部田口まで総延約22kmの田口鉄道田口線です。田口鉄道は昭和4年に三河海老駅までが開業し、更に昭和7年までに三河田口までの全線が開業しました。本来の目的は段戸山地から産出された木材や鉱石輸送でしたが、通勤通学など旅客輸送にも利用され、地域住民の足として愛された路線です。

後に豊橋鉄道に吸収されて豊橋鉄道田口線となり、最盛期は本長篠から飯田線に乗り入れて豊橋まで直通運転を行っていましたが、沿線人口の減少と貨物輸送が自動車に移行、更に山間部路線の宿命か度重なる水害の被災により経営が悪化し、昭和43年9月に廃止となりました。

かつての田口線沿線には、徳川家康ゆかりの鳳来寺、梅の花咲く海老、戦国歴史の里田峯、伊那街道の宿場町清崎、奥三河の中心地田口と自然と文化が融合した魅力あふれる山間の風景が広がっています。そんな景色の中、ゴトゴトと小さな電車が走る風景…想像するだけで素敵です。時節は前後しますが、鉄道遺構と織り交ぜてこれらの風景を南から北へご紹介します。

本長篠を発車いたします!

起点の本長篠は、飯田線や別所街道R151が通じる長篠の中心街です。田口線開業時の駅名は鳳来寺口でした。と言っておきながら、本長篠については今回ご紹介できるネタがありません(笑)代わりに、長篠の戦いで武田勝頼が最初に本陣を置いた医王寺の資料館に三河大草駅の駅名板が展示されていましたので、ご紹介しておきます(笑)本長篠から県道32号長篠東栄線に入るとすぐに山間の道になりますが、道路西側の高い位置に水平道を確認することができました。最初は溜池かなんかの堤体かと思ったのですが、行ってみると先にトンネルがあり、廃線であることが一目瞭然です。早速、廃線を歩いて写真の大草トンネルを抜けると…三河大草駅のプラットホームが残っていました。周囲に家などはなく森の中ですが、ホームに上がる階段の脇に1本の細い道が森の中に延びていました。この風景は田口線廃線跡の代名詞ともいうべきもので、耳をすませば、ゴトゴトと電車が近づいてくるような気がしました。頃は夕暮れ時、フクロウの鳴き声が聞こえていました。三河大草付近は山間の狭隘な地形で、トンネルが連続します。また、鉄道にしては結構な勾配であったことが窺えました。

鳳来寺山に仏法僧鳴く

三河大草の次の駅は鳳来寺です。

太古の昔、この地域の火山活動で形成された流紋岩が長い年月の浸食によって荒々しい岩山となりました。その山腹に今から約1,300年前の奈良時代の初め、利修という仙人が開山した古刹が鳳来寺です。古くから信仰を集めた鳳来寺には門前町が形成され、旧田口線沿線最大の観光地でした。

秋の紅葉や高さ60mの日本一といわれる傘杉など見所も多く、初詣や祭事の際は鳳来寺駅も賑わったことでしょう。ちなみに田口鉄道の本社社屋は、この鳳来寺駅にあったそうです。また、鳳来寺の山域には徳川家康を祀る東照宮があります。東の今川、西の織田と二大勢力の狭間で苦労していた家康の父松平広忠と母於大の方が強い子供を授かるよう鳳来寺に参拝した後、家康が誕生したと伝えられます。そうそう、鳳来寺山の豊かな森には、「仏法僧」と仏教における三宝を唱和するように鳴く、ブッポウソウという野鳥が生息するといわれてきました。但し、これは一千年の長きにわたる日本人の間違いで、実際に鳳来寺の森で「ブッポーソー」と鳴いていたは、フクロウの仲間のコノハズクという野鳥でした。鳳来寺近くの温泉宿の「宣伝部鳥」アフリカオオコノハズクのコハクちゃん(R5.7湯谷温泉)

本物の?ブッポウソウという野鳥は、青く美しい姿をした野鳥ですが、鳴き声は「ゲーゲー…」とお世辞にも良い声とはいえません(笑)どちらの野鳥も今や生息域が減少し、姿を見たり鳴き声を聞くことは稀になってしまったようです。ブッポウソウ(R5.7長野県天龍村にて)

鳳来寺の次、玖老勢(くろせ)、その次、三河大石は通過いたします(笑)🚃県道から三河大石駅付近の軌道跡を見る。

えびせん梅風味&一枚だ、千枚田…それ、番町皿屋敷

三河海老は、田口鉄道が昭和4年に開業した当初の終着駅でした。海老周辺は梅の名所として知られますが、特に海老から東に山道を入った川売(かおれ)の梅林は、山間の斜面に梅林が広がる美しい風景で、多くの観光客が訪れまる場所です。今の新城市市域の一番北に位置していた駅が滝上です。現在は、駅があった場所に海老池貝津交差点があります。旧田口線はここから更に北上し、当時県下最長の鉄道トンネルだった稲目トンネルを抜けて設楽に通じていました。その後、廃線跡は県道389号富栄設楽線となりましたが、稲目トンネルも県道に引き継がれました。

設楽に向かう前に、海老池貝津交差点を東に折れて、県道32号を東栄町方面に向かいます。その先に出現する絶景がこちら。四谷千枚田です。四谷千枚田は、鞍掛山の西の山腹標高約200~400mの斜面に築かれた棚田で、日本の棚田100選にも選ばれています。棚田風景は日本の原風景などといわれますが、四谷千枚田は少々ニュアンスが異なります。

明治37年7月、長雨により鞍掛山付近から発生した山津波が四谷の集落を襲い、多くの犠牲者と耕作地が壊滅する被害が発生しました。その後、集落の人たちは、苦労の末にこの千枚田を開発し、絶望の底から這いあがったそうです。いわば復興を象徴する風景なのです。

さて、ダラダラと長くなってしまいました。今回はここまでとさせてください。後編は、なりきり田口線ことDAXは稲目トンネルを抜けて設楽町へ。次の停車駅は田峰、田峰に停車いたします。

今回もご笑覧いただきまして、ありがとうございました。

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