hatao

ケルト&北欧の笛奏者、音楽教師、音楽教材著者、楽器店経営者。 ハープと笛のhttp://hataonami.com、ケルトの笛屋さんhttp://celtnofue.com 演奏、教育、普及で音楽を広める。18年京都烏丸錦に、19年東京都ひばりヶ丘に日本初ケルト音楽専門の楽器店を開店。En한中 3か国語学習中。

続けることと辞めることについて

こんにちは! ケルト音楽専門の楽器店「ケルトの笛屋さん」を経営している、フルート奏者のhataoです。この連載では私のようなスモールビジネス経営に興味のある方に向けて、私の経験やアイデアを発信しています。

2022年前半最後の月となりました。皆さんは、年初に立てた目標や計画を覚えていますか。

今年の私の目標は「忙しくしないこと」。ところが今はその真逆で、毎日忙殺されています。音楽家として毎週のようにコンサートが入り、平日はレッスンと楽器店の仕事、それ以外にもプライベートでは山の家の庭造りに園芸と、休む暇がありません。

以前にも書きましたが、多忙は悪です。多忙のせいで、最近の私は語学学習や楽器練習、読書や運動といった習慣が止まってしまいました。新しいことを学ぶ時間もありません。時間が割けないというよりも、常にやるべきことと締め切りに追われて、気力と体力を使い果たしてしまうのです。なんとかしなければと思っているこの頃です。

両腕にいろいろなサイズのボールを抱えている人を想像してみてください。バレーボール、野球のボールなどすでにたくさん抱えてこぼれそうなのに、誰かに「これも持って」と次々と渡されたら、断ったり選んだりしなければ、何かを落としてしまいます。両手を思いっきり広げて我慢していたら、いずれすべてを落とすでしょう。

ビジネスにおいても、撤退は一つの戦略です。そこで今回は、「続けるべきか、辞めるべきか」について考えてみます。

「石の上にも三年」は正しいか

私の友人が、先日入社1日目で違和感を覚えて退職したそうです。常識や損得よりも直感が正しい場合があります。異性と付き合い始めて違和感を覚えたらすぐ逃げろ、という話もありますが、相手や環境に合わせて自分を変えて適応しようとすると、心身に大きな負担となります。深手を追う前に自分を守るのは、決して間違った判断ではありません。

よく知られたことわざに「石の上にも三年」という言葉があります。冷たくて硬い石の上のような困難な環境でも三年間我慢すれば、状況が好転するという意味です。

一理はあると思います。「嫌だから」と簡単に投げ出していたら何事も完成しないでしょう。しかし言葉の使い方には注意が必要です。この言葉は辞めたがる新人を諭すシチュエーションで使われるようですが、本人が望んでいないものを強要するための都合の良い論理に使われがちだからです。自らが望んだ困難な状況に、自分を鼓舞するために言い聞かせるのであれば良いのですが、辞めたがっている人に使うべきではありません。

同じような言葉に、かつて流行した渡辺和子さんの「置かれた場所に咲きなさい」という思想があります。植物に例えて、植物は環境を自分で選べないのだから、そこに置かれたら花が咲くまで耐えましょうということなのですが、私達は鉢植えとは異なり咲くべき場所を自分の意思で選ぶことができる人間です。使い方次第では無理な我慢を強いることになりかねません。つまり「自ら望んだ苦労であれば」という条件つきで使うべきでしょう。

しつこい人が成功する

「ホリエモン」こと堀江貴文さんの言葉で、「しつこい人が成功する」というものがあります。逆境や困難があっても最後まで辞めない人が結局は成功している、という趣旨です。

私は楽器演奏を20年間しています。決して世界トップクラスの奏者というわけではありませんが、自分の望む形で音楽活動ができており、全国に多少のファンがおり、実力を認めていただいているので現状には満足しています。

これまでたくさんの音楽家や音楽愛好家と出会ってきました。中には今はもう名前を聞かなくなってしまった人も大勢います。活動していれば自然と目耳に入ってくるはずなので、おそらく辞めてしまったのでしょう。他に熱中できる何かを見つけ、違う分野で活躍しているのかもしれません。

人生は短く世の中は面白いことで満ちていますから、音楽をやり続けることだけが価値がある人生だとは思いません。ただ、たとえ低空飛行であっても長くやり続け残り続けることもまた価値があるものです。とくに芸術は下手なりに続けていれば熟成されて、その人にしか出せない味わいが生まれるものです。今は何事もスピード重視の時代ですが、芸術に効率性を求めるのは間違っています。

何かを成し遂げたい分野があるのであれば、ただひたすら続けることを目標にするのも良いでしょう。商売は続けるだけでも大変なことです。そうして周りが勝手に脱落して、最後に自分だけが残っていれば、それは一つの成功の形です。

中断すれば、いつかは再開ができる

語学の分野では、1年で検定試験の一級に合格したとか、ネイティブと見間違うほどの綺麗な発音ができるという超人がいます。一方で私のように何年やっても中級で足踏みをする人もいます。語学は競争ではありませんから、そんな超人と自分を比較しても仕方がないのですが、SNSでこういう人に出会うと才能の無さを見せつけられているようで気分が落ち込みます。

私の音楽教室では、病気、転職、金銭的事情、引っ越し、育児や親の介護……など様々な理由で生徒さんは辞めていきます。「あなたは私からすべてを学んだ、もう卒業」という人は滅多にいません。

人生にはさまざまなステージがあり、初志を貫けないこともあるでしょう。変わらないものなどないのですから、続かないのが当たり前です。それでも気持ちがまだ残っているのであれば、また再開すれば良いのです。中断している間は忘れて退化するでしょう。

しかし単語を1つ覚えるかのように、できることが増えれば自分にとっては進歩なのです。他人と比較したりいつまで経ってもできない自分を責めたりするよりも、再開したことや昔の自分よりもできることが増えたことを喜んで自信につなげましょう。そう。辞めたのではなく「今はお休みしているだけ」なのです。

終わらせ方が大事

日本人はどうも終わらせるのが苦手なようです。始めるときは華々しく喜ぶ一方で、辞めることに対しては「意思が弱い」「粘りが足りない」とネガティブなイメージがあります。

ですからサークルや会社からこっそりといつの間にかいなくなっていたり、知らない間に離婚していたりと、なるべく人に知られないように終わらせるのでしょう。

私は幼少期、親にたくさんの習い事をさせてもらいました。自分が進んでやりたがったのではなく、教育熱心な親が、私にどんな才能があるか試していたのでしょう。絵画、少林寺拳法、水泳、そろばん、ボーイスカウト……(どうして音楽教室に行かせなかったかと思います!)。どれも楽しめず、何度か通っては泣いて親にやめさせてもらいました。私は子供なりに親に申し訳なく感じ、何も続かない自分を責めていました。

しかし大人になった今、辞めることそのものが悪いとは決して思ってはいません。何かを終わらせなければ、次の素晴らしい何かを始めることはできないのですから。恋愛においても、別れは本当の相手と出会うためのステップだと言われることがあります。

ただし人が関わることであればしっかりと理由を説明し、なるべく納得してもらうことは、その経験をネガティブな思い出にしないために大事でしょう。人と向き合って本音を伝えるのは怖いことですが、フェードアウトしたり連絡を断ったりして有耶無耶に辞めてしまってはお世話になった方々にモヤモヤが残りますし、何より自分自身が苦しくなります。終わりにしたいと思ったときどう行動するのか。そこに、その人の本性が現れます。辞め方の作法を学んで、辞め上手になりたいものです。

次回の連載では「コトの断捨離」、やめるべきか続けるべきか迷った時の考え方について書いてみます。