岐阜県は旧国名でいうと北の飛騨と南の美濃に分かれます。美濃地方においては、木曽三川とその支流の流域が、南北に連なる山地によって隔絶されて、それぞれ独自の風土、文化が形成されてきたようです。名古屋に住むようになって半年。それぞれの地域を少しずつ覗きに行って楽しんでいます。
未だ残暑が厳しい9月上旬、揖斐川支流の根尾川の流域、通称「根尾谷」を訪れました。
鉄分多めのワタクシ、訪れたことのない地域で、まずチェックするのは鉄道路線です。根尾谷には樽見鉄道という第三セクター路線が通じています。根尾川流域の山里風景にたった1両のレールバスの気動車がのんびりと走っています。
根尾川はエメラルドブルーの水面が映える清流です。立ち込みでアユを狙う人の姿がチラホラ。いてもたってもいられなくなって、思わず河原に下りてしまいました。突然の珍客に驚いたゲエロが草むらから飛び出した。
まずは地学から
国道R157で北上し、本巣市水鳥(みどり)地区にやってきました。ここでは地質学上とても貴重な天然記念物根尾谷断層を見ることができます。明治24年10月28日に根尾谷を震源とするマグニチュード8(M8)の大地震が発生しました。濃尾地震と呼ばれるこの大地震では、岐阜県美濃地方と愛知県尾張地方を中心に東海、近畿、北陸地方にかけての広域で死者7千人以上、全壊家屋15万戸近い被害を生じました。ちなみにM8という規模ですが、関東大震災を上回るものです。
その根尾谷断層ですが、最大上下6m、左右8mに及ぶ断層面のずれが生じたそうです。のんびりとした耕作地の風景に突如出現する土塁のような断層面は、違和感ありありです。断層に隣接する断層見学館も立ち寄りたいところですが、今回の目的は別のところにありあますので、次行ってみよー。
更に根尾川沿いを遡行すると樽見鉄道の執着駅樽見に至りますが、その手前で気になるお店が目に入り立ち寄りました。根尾谷名物菊花石を商うお店です。ご店主が実に気さくな方で、菊花石にとどまらない鉱石や根尾谷の自然に関する丁寧な解説とお抹茶まで立ててくれました。
ご店主曰く。菊花石とは、割った際の断面に菊の花のような模様が出る石で、岩石愛好家の間では人気があるそうです。かつて根尾谷を訪れた画家川合玉堂は「美濃の国 根尾の谷間の石に見る 神業かしこ 七宝の菊」と詠み称賛したそうです。樽見は根尾谷上流の東谷と西谷が出合う場所ですが、東谷の上流部で菊花石が採取されるそうです。
記念に1つ購入していこうと思いましたが、これはというものは〇万円、〇十万円…ようやく一葉さんで購入したものがこれ。
…うん、なんかフジツボみたいね(笑)
根尾の薄墨葉桜
樽見には全国的に有名な観光スポットがあります。日本三大桜のひとつ「根尾の淡墨桜」です。桜の花が咲くころには、この山間の集落に全国から観光客が訪れる訳ですが、頃は葉桜。訪れる人もなく、大樹に寄るホオジロの鳴き声が根尾谷に渡っていました。淡墨桜は樹齢約1,500年、何度も枯死の危機を乗り越えてきた古木ですが、お隣には大正時代に株分けした二世が大樹に成長しています。
そういやぁ、地元秦野市の山の手、私の父が眠る墓地の近くにも淡墨桜が株分けされています。こちらはこちらで菜の花に囲まれてとっても良い具合なのです。福島県三春の滝桜もそうですが、全国各地に株分けされて人々の目を楽しませてくれます。
ちなみに日本三大桜のうち、三春の滝桜、山梨県北杜の山高神代桜は開花時に訪れたことがありますが、薄墨桜も来春は足を運んでみたいと思っています。混むでしょうから樽見鉄道の始発に乗って。
“酷道“157号線に挑む
さて、先述のとおり、根尾川を遡行していくと樽見で東谷と西谷に分かれます。R157を辿っていくと西谷に入ります。根尾谷でも一番深部にあたる集落が能郷です。その名の由来は、白山を開山した泰澄大師が能郷に白山神社を建立した際、今の能楽の元祖となる古式舞踊が奉納され、それ以来、この地では猿楽舞踊が伝えられてきました。
実はこの日、この能郷から越美国境の能郷白山という山に登ろうと考えて訪れたのですが、これまでの道中、根尾谷の自然、文化に魅了され頃は既に正午。泰澄大師が開いた能郷からのロングトレイルを歩くには、とても時間が足りません。引き返して観光に徹する手もありましたが、能郷からR157を進んだ越美国境稜線上の温見峠からも能郷白山へのショートカットルートがあります。せっかく能郷まで来たので、温見峠まで行ってみることにしました。
昨今の日本100名山、更には200名山、300名山ブームの影響で、標高の高い山奥の登山口まで車でアクセスして、山麓からの従来ルートに比して楽に山頂に登頂できるショートカットルートが多く整備されるようになっています。私はピークハンターではないので、本来の山の姿を感じることができないショートカットはあまり好まないのですが、そんな気取ったことばかり言って機会を逃すのももったいない。何せ短い名古屋赴任期間に比して、訪ねてみたい魅力的な山はいっぱいあるんですから。
R157(国道157号線)は、石川県金沢市から岐阜県岐阜市を結ぶ国道ですが、この内、本巣市能郷から福井県大野市に通じる越美国境の稜線を越える山岳区間は、我が国でも有名な酷道として知られています。実は事前に酷道としてチェックはしていたのですが、愛車「鈍牛君」のサイズが大きいため、懸念事項ではありました。
能郷から根尾西谷を更に遡行していくと黒津、大河原、越波というかつて奥三ヶ村と呼ばれた廃村落に至りますが、この区間が酷道の核心部。根尾西谷の倉見渓谷をトラバースする道路ですから、谷側が深く切れ落ちて4輪は離合が困難な隘路です。おまけにガードレールがない。ダメ押しで落石に要注意です。かつては「落ちたら死ぬ!」という名物看板もあったようですが、こちらは撤去されて久しいそうです。
大河原の集落跡を通過すると谷の落差は小さくなりますが、それでも支沢の流れが路上を横断する洗い越しや切端が荒々しい切り通しがあって、ドライバーを楽しませてくれます。思わず声を出して「これが国道かい!?」
ありがたいことに酷道を好む数奇者は少ないようで、対向車は少な目でした。それでもたまに対向車が下ってきてヒヤリ・ハットはありましたけど。驚いたのはたまに商用車が走って来ることです。確かに岐阜市の会社が大野市の取引先に行くことになった場合、郡上市白鳥~九頭竜湖を経て大野に行くよりは、この道を選ぶかもしれません。数奇者の営業マンならば(笑)
周囲の林相がブナに変わると温見峠はもうすぐです。150年ほど昔の江戸幕末の頃、この峠付近の越美国境の稜線を越えた集団がありました。水戸藩内の抗争に敗れ在京中の一橋慶喜を頼って中山道を西上してきた尊王攘夷の一派天狗党です。中山道を討伐軍に封鎖されたため、急遽根尾谷から越前大野郡に抜ける苦肉の策でした。頼みの綱であった慶喜が天狗党討伐を朝廷に上奏しているのも知らずに…この後、天狗党が越前敦賀で幕府側に恭順しましたが、最悪の悲劇が天狗党を待ち受けています。
そうこううんちを…うんちくを垂れているうちに標高1020mの温見峠に到達しました。登山者用の駐車場などはないのですが、路肩に駐車スペースがあり、既に10台ほどの登山者の車が停まっていました。
能郷白山登山記(ショートver)
さて、ここ迄でおなか一杯になってしまいました。ショートカットとはいえ、能郷白山登山記をご紹介するのは難しいので、手短にご紹介いたします。
峠周辺は気持ちの良いブナ林でしたが、しばらくすると鎖や階段交じりの急登になります。このパターンはショートカットらしい強引さがうかがえます。
急登を登り切ったところがコロンブスピークと呼ばれる小ピークです。「コロンブスとはこれ如何に?」頭の固い私は謎解きにしばらく時間がかかりましたが、皆さんはもうお分かりですよね?
その先は一変してダケカンバの低木と笹原の穏やかな稜線になりました♪一般的な樹木の様に天に向かって伸びず、地を這うように伸びたダケカンバから、能郷白山を含む越美国境一帯が豪雪地帯であることをうかがい知れました。
山頂手前は東面が大きくガレていましたが、これは前述の根尾谷断層の末端になるそうです。
山頂の一等三角点周辺は背丈以上に伸びた笹原に囲まれていますが、少し西側に移動すると白山神社が祀られています。ここから南側の展望は実に素晴らしく、眼下には前山を経て能郷に下る登拝道。その先の根尾谷をたどっていくと濃尾平野に出て、岐阜城まで望めました。
能郷白山は、霊峰白山を遥拝するため泰澄大師によって開山された山ですが、根尾川流域の人にとっては、山麓が紅葉する頃、一足早く雪を頂き、淡墨桜の花が散り葉を茂らせるまで雪が残る水源の山、恵みの山として信仰の対象であったことでしょう。
今回もご笑覧いただきまして、ありがとうございました。