こんにちは! ケルトの笛奏者で、ケルト音楽専門の楽器店「ケルトの笛屋さん」を経営しているhataoです。この連載では、スモールビジネスを営む私が起業やビジネスについてアイデアと経験をみなさんとシェアします。
先日、大学時代の旧友から突然電話がかかってきました。同じ立命館大学の同窓生で、プロの日本胡弓奏者の木場大輔君です。大学卒業後は音楽ジャンルの違いもあり頻繁に連絡をやりとりする間柄ではありませんが、Facebookで活躍の様子を見ています。
電話があったとき私は知人の家で飲んでいました。電話嫌いの私は普段は電話には出ないのに、その時は珍しい人からかかってきた好奇心で思わず電話を取ったのです。彼が言うには、私がかつて在籍していた軽音ジャズ部の先輩と同級生との3人で飲んでいて、私の話題になったから電話してみようということになったのでした。
酔っていたこともあって、彼らと過ごした1年がいかに自分の人生に大きな一年だったかを思い出し、思いのままに伝えました。今日は、そんな話を書いてみます。
高校3年で突然ピアノが弾きたくなった
音楽家(笛の演奏家)として演奏活動をしている私ですが、楽器を始めたのは高校3年生の頃。ゲーム少年だった私は、自分だけのオリジナルのゲームを作って友達にプレイしてもらうことにハマっていました。プログラミングなどできません。当時PCでそういうソフトがあったのです(RPGツクールと言います)。音楽機能はオマケ程度で、五線上に音符を貼り付けて電子音で再生する簡単なものでしたが、私はゲームを作ることよりもむしろ自分で音楽を作れることに興奮しました。とはいえ、鼻歌を音符に変えていくだけで、音楽理論もコードもわかりません。すぐに作曲能力の限界を感じて、親に頼んで近所のピアノ教室でピアノを習わせてもらいました。自宅にピアノはなく、安い電子キーボードでの練習はままならず、受験勉強が本格化したため半年で辞めてしまいました。
それからも音楽への想いは冷めず、大学に入学したらピアノを弾きたいと思っていました。大学の体育館にはグランドピアノがありピアノ研究会に入会したら自由に弾けるという噂を聞いて、何度か行ってみました。ところが部員は全員ピアノ上級者。とても自分が弾けるような雰囲気ではありません。そんな折、同級生の木場君に「ピアノ弾きたいんやったら一緒にジャズやらへん?」と誘ってもらったのです。
何も分からずジャズ部に入部
それまでジャズなど聴いたこともない私でしたが、同級生が一緒ならとジャズ部に入部して、ピアノを練習し始めました。ジャズ部は学生会館に部室があって、「4ホール」という広い音楽室と練習室(楽器倉庫?)を自由に使っていました。
部の練習が始まるのは放課後でしたが、部室はいつも空いていて、早い時間に行けば個人練習することができました。授業をサボって部室に行くと、そこにはジャズに没頭するあまり留年した先輩とか、マンガを読んだり昼寝をしたりしている部員がいて、ユルく自由な雰囲気がありました。私はすっかり居心地がよくなって、1年生の初めから授業をサボっては部室に入り浸るようになりました。
ジャズが大好きかと言えばそうでもなかったかと思います。ただ、音楽が好き過ぎて人生を踏み外しかけている先輩や同級生の熱に浮かされて、自分もそんなふうに熱く学生時代を過ごしてみたかったのです。
救いようのない新入部員が民族音楽に出会う
ジャズは即興演奏の音楽です。ジャズの語法で即興演奏をするには、楽器が上手であることは当然で、その上で音楽理論やジャズらしいフレーズのボキャブラリー、創造力や反応の速さといった能力が必要になります。私にはその一つもありませんでした。そもそも、ろくに楽器が弾けないのです。
それでも先輩や同級生は私を仲間だと認めて付き合ってくれました。本当にジャズピアノが上手くなりたければレッスンに通ったりCDの素晴らしい演奏をコピーをするといった方法があったでしょうが、当時の私には思いつきもしませんでした。今思えば、全く救いようのない新入部員だったのです。それでも夏の合宿に参加し、秋の部内発表会に参加しました。
上達して先輩とバンドを組んだり、ビッグバンドでソロパートを任される同級生を横目に、私はそろそろ自分の限界を感じていました。そんな頃、木場君が民族音楽バンドを立ち上げたいからと誘ってくれたのです。なぜ彼が、まともに楽器のできない私を誘ってくれたのだろうかと思いますが、むしろジャズに傾倒していない仲間が欲しかったのかもしれません。
彼は中国の二胡やヴァイオリンを弾くから、私は笛をやってくれということで、南米アンデスのケーナやアイルランドのティン・ホイッスルを渡されました。その当時私はどんな楽器に対しても興味を持っていたのですが、笛を吹いている時が一番楽しかったことを覚えています。こうして同級生4人を中心に民族音楽バンド「まほろば」がスタートしました。誰一人として民族音楽を教えられる人がいない、手探りでそれぞれの想像する「民族音楽的なもの」を形にするバンドでした。
音楽家としての人生が始まる
奇しくも97年は映画「タイタニック」が日本で公開された年。名作だという噂はすぐに耳に入りました。だいぶ遅れてから冬頃に映画館に観に行き、劇中のアイルランド音楽の演奏風景に衝撃を受け、また劇中歌の”My Heart Will Go On”の中で聴こえるティン・ホイッスルの音色に魅了されて、アイルランド音楽への興味が膨らんでいきました。
ちょうどその頃、日本では静かなアイルランド音楽ブームが始まろうとしていました。2000年前後には京都、大阪、神戸、首都圏でアイリッシュ・パブが次々と営業を開始し、生演奏やセッションを聴くことができるようになっていったのです。当時アイルランド音楽を始めた人はとても多かったと思います。同時期に私はアンデスのフォルクローレの演奏にも熱中し、以後の学生生活は社会人バンドの参加や楽器演奏のアルバイトにライブと、音楽活動を中心に過ごしていくことになります。その話はここでは省略しますが、私はこの年を起点に四半世紀も民族音楽を演奏しており、今では音楽が生活の糧を得る手段にもなっています。
2001年頃の筆者、アイルランドにて
人生のターニングポイントは出会いと情熱から
私は人生の最後の瞬間まで笛の演奏家でいるでしょう。そんな人生を方向づけた重要な出来事が、すべて1997年に起きたのです。それは、偶然の出会いと、情熱を注げるものを無我夢中で追い求めた結果です。
立命館大学に行っていなければ木場君に出会うこともなかったし、彼にジャズ部や民族音楽バンドに誘われなければ音楽をすることもなかったし、おそらく会社に就職するか英語の先生になっていたのだろうと思います。
人生の計画を立てて、その通りに進めようとするのも一つの生き方。偶然と流れと情熱に従うのも一つの生き方。私には、その後の人生でも様々な出会いがありましたが、前にも後にも1997年ほど人生に大きなインパクトを与えた年はありませんでした。それは、きっとあの時、部室で同じ時間を共有していた彼ら3人にも同じだったのではないかな、そうであったら良いな、などと考えるのです。