冷静に現状と向き合うことの面白さ
腕の痛みと慣れない「ほぼ」片手運転で、小さい頃に何度も行った市の大きな病院に向かう。外傷はほぼ無いから救急病院の待合室でもなんだか普通に座っているおじさんな僕。表現が正しいかわからないが、救急病院の待合室はヒューマンドラマが展開されている。
「腕を怪我して血まみれの小学生くらいの男の子」
「絶望の様相で親族を待っているであろう年配の女性」
「僕のように特に怪我もなく座っている中年の男性」
僕は至って冷静だ。だって自分ではどうにもできないことだから。適切に医者の指示や処置に従うしか無いのだ。しかも僕と同じようなケガをした人なんてごまんといるはずだからね。
ただ、この怪我での後遺症や子供との活動の幅が制限されてしまうのは嫌だ。それでも「たら・れば」をここで言っても仕方ない。まずは冷静に現状と向き合うこと。割と大変な状況だからこそ僕は無理にでも冷静を装って現状と向き合う。想定できるリスクヘッジ、トラブルシューティング、そんなことを考えていると、「シニカルにカッコつけている」自分が面白くなる。そして、こんなネタになることはないとInstagramのネタとして発信をする余裕も出てくる。
これまでほとんど縁がなかった「骨折」
診察の結果だ。やはり骨折していた。流石に折れているとは思ったが、その事実を突きつけられてちょっとショックだった。だって骨折したことなかった45年間だったのに、それが途切れてしまったからだ。45年継続の記録なんてなかなか作れないでしょ?
関節が2箇所折れている。ただ分かる範囲では腱の損傷は無い様子。最悪の事態は免れたわけだ。だって、腱が切れていたら手術も大変だし手が使えない。それは流石に大事になってしまう。。。。。
兎にも角にも全治数ヶ月のケガをしてしまった事実。そしてこれから迎える「初めての骨折による不自由」への不安。でも仕方ない変えられない「未来と過去」。向き合うことから逃げるつもりも全く無いのだ。まずは1日でも早くケガを治すこと。
「たら・れば」の後悔をしない僕の唯一の後悔
この休みは僕と息子と実家の両親と楽しむ「僕の夏休み」だった。実際に父親の生まれた千葉の片田舎で子供と父親が一緒に虫取りをしたり、神社ではしゃいだりと、父親も子供も絵に描いたような田舎の夏を楽しんでいたし、僕もそれを見て「親孝行ができた」という変な安堵感を持ち合わせた、とても良い時間だった。そして本来であればこの後、母親の元に子供を連れて行って一緒に遊ばせる予定だったのだ。
僕の骨折のせいで大事な「僕の夏休み」はあえなくぶち壊されたわけだ。この時間は二度と戻ってこないかもしれないくらい、思い出深い時間だった。。。来年は親は元気なのか、子供は一緒に遊んでくれるのか、、、、。僕が滑りやすいサンダルではなくちゃんとした靴を履いてい「たら」、一人で無駄に買い物に行かなけ「れば」・・・・・・・
人生初の骨折をした僕は、この後病院をタライ回されて変えられない現実を突きつけられることになる。。。。
まだ続ける・・・・・????