魚屋では目利きはするな
三浦哲哉さんの『自炊者になるための26週』という本に、私もよく行く魚屋さんのことが書かれています。料理店への卸売りがメインだけれども小売りもしてくれる店です。そこの店では店主がその日に買うべき魚を示して、料理の仕方も教えてくれる。「目利きはするな」という章で、要するに、自分で目利きするのは難しいので、店主のセレクトを全面的に信頼できるお店で買えということです。
食べものは美味い不味いがかなりはっきりしていて、特に生鮮食料品の場合良し悪しは個人の好みを超えていることが多い。だから、店主があらかじめしっかりと良いものを選んでいる店で買うのが合理的です。すの入った野菜や、甘くない果物を混ぜて売っている八百屋では買い物をしたくありません。
これがファッションなら、少し事情が違います。縫製の丁寧さなどはあるかもしれないけれど、デザインの好みは人によるし、体型や着る機会によっても求められるものが異なっているからです。ある程度だれにでも似合う服を作ることはできるかもしれない。しかし、どんなときでも着られる服はありえません。だからどんなショップも場合によって玉石混淆とならざるをえず、自分で選ぶことが必要になります。とはいえセンスの良いセレクトショップというのはあって、そこで買えば、多少着こなしの難しい服はあるとしても、少なくとも流行遅れのみっともない服をつかんでしまうことはありません。
商品によって、店主が目利きをしてくれることの効果は違ってくるのです。
セレクトショップ型書店
本屋にもセレクトショップ型の店があります。カルチャーに詳しく、センスの良い店主が選んだ本だけが置いてあり、そこで買えば間違いなくかっこいい読書ができる。典型的には代官山蔦屋書店のような本屋で、当店にはイケていない本はありません、というような雰囲気があります。そういう本屋に定期的に通っていれば、よく読まれている本もわかりますし、いま話題の本が必ず陳列されているので、流行に乗り遅れることがありません。書店が一種のメディアとして機能しているわけです。
古本屋では、少し事情が違います。まず、古書の場合、自由に仕入れすることができません。今読まれるべき本がわかっていても、それをピンポイントで仕入れることはできません。せいぜい、周辺分野の本を集めておくぐらいでしょうか。大雑把には蔵書の傾向をコントロールできます。長い眼で見ればあるべき本が棚を通過していきますが、同時に揃うということはありません。
セレクトショップ型書店では、変化する棚、今買わなければ次はいつになるかわからない緊張感がお店の魅力になります。ずっと同じ本が置いてあるより、次に行ったときに棚の様子が変わっている方が楽しいでしょう。
一つここでことわっておくと、古書店でも専門店では少し事情が違います。専門店は店主の個性による選書をする店とは違い、ある程度客観的な基準で選書がされています。専門店というのは、「囲碁」とか「鉄道」とか「短歌」とか「数学」というように、特定のジャンルの本を集めている店のことです。そういう店では店主のセンスによる蒐書というよりは、たとえば囲碁なら囲碁、数学なら数学のコミュニティで基本的な本が何であるか共有されていて、それに沿った蒐集をすることになります。基本的な本はなるべく在庫して、売れてしまっても同じ本を棚にさせるようにしているかもしれません。
古本屋三原則
岡本太郎の芸術の三原則は、「今日の芸術は、うまくあってはいけない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という言葉ですが、それをもじって当店では古本屋三原則を作りました。
いわく、「古本屋は、良書だけを集めてはならない。おしゃれであってはならない。いごこちよくあってはならない」(そのときどきにより微妙に変わります)。
良書善本というのは、今現在の社会の価値観の中で「良い本」と認められた本です。それが未来永劫良書であるとは限りません。逆に時代の中で追放すべき悪書とされたものの中にも後の世に重要な本とされるものもたくさんあります。たとえば江戸時代の春画や戯作は当時の幕府により禁止されたり著者が刑罰を受けたりしましたが、現代では貴重な芸術であるとの評価を得ています。戦前にはマルクス主義文献やプロレタリア文学は発禁でした。
時代が変わって良書に変わるだけではありません。悪書は悪書なりの資料としての価値があるかもしれません。たとえば政府が発行した文書の中に今日の価値観では許されないような記述があれば、それは当時の政府の姿勢を証明する貴重な資料になります。そこまでではなくても、世の中には良いもの悪いもの退屈なものおもしろいものなど、いろいろな本があります。雑多なものが雑多なまま存在するのが文化です。私たちは、現代の文化に寄り添う古書店として、古本屋をきれいなだけの場所にはしたくないと考えています。
古本屋の冒険
本の中には人間の思考が詰まっています。我われとは全く違う生活環境や境遇にいる人や、現代人だけではなく過去の人、中には数千年も前の人物の著作もあります。古書店には今ある本を次の世代に伝えていくという役割もあります。我われと全く違う背景を持った著作を簡単に現代の価値観や倫理観で切り捨てることはできません。
吉祥寺には先に挙げたGのほかにも良い魚屋さんがたくさんあります。駅ビルの中のRは、大きい店なので店員さんもたくさんいて、刺身から干物まで何でも揃う。惣菜コーナーには寿司も売っている。最初は目移りするけれど、慣れるとその日買うべきものがわかってくる。いつもよりあきらかに安いネタが角の目立つところに置いてあったりします。その日最も買うべき魚だけではなく、なんらかの事情や欲望で買わなければいけない魚を、こういうお店では選ぶことができます。
本の読者もまた、さまざまな人が、さまざまな理由で本を求めるでしょう。食べものであれば、毒のあるものは食料品店で売っていません。毒も使い方では役に立ちます。それを売るのは魚屋や八百屋ではなく薬局です。本屋では、毒の本も薬の本も本屋の扱いです。スーパーマーケットで買える食品は安心して食べることができますが、本屋で売っている本は、必ずしも安心して読めるわけではありません。ある程度の判断力がないと危険な本がたくさんあります。本を読む人には、その本を適切に読めることが期待されているわけです。
新刊書店ではどうしてもその時代の要請に基づいて、いま求められている売れる本を並べることになります。古書店では、あまりそういう事はありません。ちょっと時代遅れだったり、アナクロだったりする本が棚に並びます。今日のプロダクトではありえないような書物と古本屋では出会えるのです。その意味では、古書店で扱われるものの幅は一般的な新刊書店よりもずっと広く、本を選ぶ読者のエネルギーもより多く必要になります。しかし、我われはそういう幅広い書物の中から自分だけの1冊を発見して欲しいと思っています。
常識を覆してしまうような、今までの生き方を変えざるをえないような危険が、読書にはあります。そういう本は、たいてい人を寄せ付けないような姿をしています。軽い気持ちの人が手を出せないような、硬質な雰囲気を醸しているものです。難しい本が難しい言葉で書いてあるのもそういう理由かもしれません。けれども、もしその近寄りがたい本があなたに呼びかけていると感じたら、それはあなたがその本に呼ばれているのです。もしかしたら世界の扉を開く鍵を手にしたのかもしれません。
みなさんにはぜひ、危険な書物との出会いを古書店でしていただきたいと思います。古本屋で本を選ぶのは冒険なのです。